高橋龍太郎のコレクションを美術館で展覧会として公開する第一歩となった。コレクションの核となる1990年代以降の日本の現代アートの特徴的な側面を、ネオテニー(幼形成熟)というキーワードにより表現、35名の作家の作品114点(会場により作家数、点数は異なる)を展示した。
いわゆる西洋の美術史をなぞりながらも、異なる文脈、価値観をもって発展を遂げてきた日本の美術。特に1990年代以降の日本の現代アートに見られる、サブカルチャーとの親和や、内向性、日常への愛着と裏腹に現れる物語への傾倒、幼さやかわいいもの、過剰さへの指向、そして多様なメディアを巧みに用い、時に細密描写や超絶技巧により、観る人を感嘆させる表現力。そうした特性が、西洋のスタンダードな現代美術とは異なる、日本の現在形のアートとして結実した状況を描き出した展覧会である。
2008年から2010年にかけて7館を巡回、本展を初めての現代美術展として開催した館もあり、幅広い年代、特に若い観客層に反響が大きく、「高橋コレクション」が広く認知されるきっかけとなった。
ネオテニー・ジャパンとは?
高橋龍太郎
アホロートルという風変わりなペットがいる。水槽で、ピンク色したずんぐりした体と短い手足を持ちながら、きょとんとした表情をこちらに向けてくる。ウーパールーパーともよばれ、愛らしいと一時、ブームにもなった。このアホロートルが陸上に移動させられたり、甲状腺の抽出物を与えられたりすると、サンショウウオに変身することを知っている人は少ない。
このアホロートルのように、幼形を保ったまま性的にも成熟してしまうような変態過程を、ユリウス・コルマンは1884年、ネオテニー(幼形成熟)と名付けた。以来、動物学や発生学等で論争を繰り広げさせることになったこの概念を一躍有名にしたのは、1925年、アムステルダム大学の解剖学教授であったボルグによって行われた『人類の成立の問題』と題する講演であった。
そこで彼は「身体的に現生のヒトは性的に成熟した、サルの胎児である」との衝撃的な主張を行う。人類は類人猿のネオテニーであるという驚くべき理論の根拠とした。平面的な顔、少ない体毛、大きな脳容積等をあげ、これは類人猿の胎児と共通しているとした。しかも人類はこの幼形を保ったまま、ゆっくりゆっくりと成長を遂げる。この成長の遅延も、人類の大きな進化の要素としてあげた。
人類は直立歩行のためもあり、四つ足動物のように充分な妊娠期間を維持することができず、幼形の胎児のまま生み出される。そのために1年近くも歩くことさえできず、母親はつきっきりで面倒みなければならない。これが野生の動物であったら、こんな大きなハンディキャップを背負ったら、母子ともども生きぬくことができなかったろう。
しかし、大きな脳を急速に発達させ、新皮質とよばれる部分が極大化したこと、群生で生活することで、人類はこの危機を乗り越えた。このゆっくりとした、しかし他の類人猿には類をみない成長のため、人類は巨大な創造性と個体間の生涯にわたる細やかな愛情を獲得することになる。
日本の美術界は、この100年、奇妙な沈黙のなかにいた。江戸期を通じて完成された官の狩野派と民の浮世絵は、明治の文明開化の時代には、時代遅れのものとされ(単に西欧の美術の文脈からはずれていただけなのだが)、多くが捨値同然で海外に持ち出され、浮世絵研究でさえ、海外の美術館に行かねばならない体たらくになった。
彼我の差に唖然とした日本の美術界は、なんとか日本の伝統美術を守るべく、苦しい対抗策に打って出る。絵画を、洋画と日本画に分けるという手法である。伝統的な日本画は守る。その代わり、西欧の絵画はしっかり技術を輸入して学ぶというわけである。
この方策は、ある面では、成功したともいえる。日本全国津々浦々、美術館は林立し、日展を頂点とする美術展は、全国から応募者を数え、ルーヴル美術館から作品がやって来るとなると、列をなして見物に訪れる。日本人ほど、美術にお金をつかっている国民は、世界中にいないはずだ。
しかしこの100年有余、日本の洋画壇とよばれるところから世界に向かって、何かの作品を発信した、何らかの運動が生まれたという話は、聞いたことがない。これだけ才能やお金や制度を無尽につかいながらである。たとえは悪いが、富国強兵策を背景に、鎖国状態だった国がロシアに戦争をしかけるのに40年、世界に向かって対戦を挑むのに、70年であった。終戦後、灰燼に帰した国土から、輸出大国になるのには、40年もかからなかった。
しかし、である。なぜ美術界だけは、一切発信できなかったという、こんな不思議なことが可能だったのかと、むしろ当たり前の疑問がうかぶ。もちろん、美術とは、あくまで西洋美術のことであり、西欧の文脈のなかに日本の美術が取り込まれてしまっている以上、やむをえなかったのでは、ということはよく理解できる。
それにしてもである。
日本には洋食という世界がある。
ハンバーグだったり、オムライスだったり、ハヤシライスだったり、ビフテキだったり、40年以上も前、私が上京した折には、それでさえ食べに行くのは、ぜいたくに思えた時代だった。洋食にはまだ文明開化のオーラが残っていたのである。しかし、今、これを何か開花の薫りがすると思っている人はいないであろう。これがそのまま西欧で食べられているものだと、誤解している人もいないはずだ。
いまや東京は、ミシュランの都である。信じられない数の三ツ星、三ツ星が綺羅星の如く輝いている。この世界水準の西欧料理と洋食は、何かつながっているところがあるだろうか。町の洋食屋さんが、一念発起して三ツ星をめざすことは可能だろうか。
多分できないだろう。ミシュランの西欧料理と洋食とは、概念も質も全く異なるものだからだ。
この洋食と洋画というのは、どこか似ていないだろうか。明治大正昭和と、洋画壇の重鎮たちは、何も西欧の基準からはずれようと思って洋画なんかをはじめようと思ったわけではないだろう。しかし、日本独特の、家元制度にも似たヒエラルキーや、官界との癒着、輸入文化へのコンプレックスと、その嫉妬など、さまざまな感情が織り込まれていくうちに、世界に類をみない表現世界が確立された。世界中の誰からも評価されないくせに、国内の競争だけでは熾烈を極めて、日本人の美術愛好家と称する人にだけ評価されるという世界である。
美術として発表された殆どのものは、評価されなければ、世の中では粗大ゴミである。道具であればその実用性でながらえるが、美術という幻想を世界の人々が共有できないなら、その作品は、1個の金槌にも劣ることになってしまう。
幼形成熟の対の言葉で「成体進化」という言葉がある。これは老人のようになる、極端に特殊化することを意味している。大型猿人猿(オラウータン、チンバンジー、ゴリラ)は、この成体進化を遂げてしまったといわれているのだが、日本の洋画は、人類になりきれず成体進化を遂げてしまったのだろう。
この20年、日本の若者たちほど、豊かで、気儘で、自由に主張ができて、一方でスポイルされ続けた存在は、人類史上類をみない。先ず、小学生が何万という現金(お年玉)を手にして、それをゲーム、漫画、アニメ、ケータイに散財する。それはまるで子どもの王国である。子どものもつ全能感がそのまま実現した夢の王国。繊細で傷つきやすく、脆いくせに暴力的で、エネルギーが溢れているかと思うと倦怠に満ちる。
そしてこの王国は、世界でもっとも精緻を極めた技倆を持つプロ集団によって支えられていた。この王国が世界中で評判をよぶのは、至極当然のことだった。
子どもの王国とは、幼形がそのまま成熟していくネオテニーそのもののことである。同じ感性を育ててきた日本の作家たちが、既成の洋画壇から遠く離れたところで、表現活動を開始した。
私が1997年からコレクションをはじめたとき、それは殆ど、都市の中の周緑にあるギャラリーで発表されたものだった。そしてそこには、ネオテニー的感性と高度に成熟した表現力が共存する絶妙なバランスがあり、購入せずにはいられない魅力を放っていた。
最近のオークションがリードする美術界をみると、芸術への目線がどんどん下がっているのに気づく。かつて芸術とは、王侯貴族や宗教家のものだった。選ばれた階級が、選ばれた天才を駆使してつくりあげた天上界のものだった。私たちはそれを理解するに、宗教や哲学を学び、教養を深め、見上げて鑑賞することで、選ばれた領域に一歩でも近づこうとした。
しかし、いま私たちのまわりアートは、私のつらさ、喜び、悲しみ、驚き、衝動、暴力に密接に結びついている。かつてのように見上げたアートではなく、地上に目を下ろし、自分たちを発見するものとしてそこにある。アートの目線が下がっているのである。
印象派が単なる風景でさえ、芸術になることを発見したように、私たちの世代は、自分の日常が、アートとなることを発見しつつある。日本の若きアーティストたちは、世界のなかでその先頭にいる。ネオテニー的戦士たちである。先進国のなかで、最も遅れて美術界に出てきたことは、人類がゆっくりと遅れて発達してきたというネオテニー的状態と重なる。
村上隆は、2001年の東京現代美術館の「召喚するかドアを開けるか回復するか全滅するか」展が、全国の美術関係者からほとんど顧みられることがないままに、以後、活動の中心を世界に移すことになった(今から思えば、それは村上が全滅を賭した闘いだったのだ!)。芸術の目線が下がっていることに気づかなかった美術館関係者が多数であったがゆえに、美術館はこの間のコレクションをほとんど停止している。この不幸としか言いようのない幸運のおかげで、高橋コレクションは成立している。村上、奈良ではできなかったが、それ以降の日本の現代作家たちの多くの代表作を、日本人である私がコレクションできたことである。あと5年コレクションが遅かったら、彼らの代表的な作品も殆ど外国のコレクターたちの手に渡っていたかもしれない。そしてまた、日本の現代アートは、またもや彼らによって「発見された」ことになったろう。そうならないですんだことが、この高橋コレクションのささやかな意義である。
先ほどの芸術の目線が下がっているという自説に従えば、むしろ芸術とはネオテニー的遊びの究極的なものであり、その純化が日本の現代アートシーンである。これまでの西欧で表現されたいわゆる西洋美術は、アートのなかの類人猿である、アートのなかの成体進化に過ぎないと批判するくらいの破天荒な批評家が出てきやしないかと、いまや密かに期待しているところだ。冗談ぽいが冗談ではない。ネオテニーの概念からすれば、他のネグロイド、コーカソイド、コーカサイドに比して、モンゴロイドほどネオテニー的特徴を有している人種はいないと言われている(平面的な顔を見ればわかる)。近い将来、モンゴロイドが人類の多数派になる可能性は充分だとすれば、そのときは、この高橋コレクションカタログが、人類の美術史のメインストリームの教科書になるかもしれない。(笑)
初出:『ネオテニー・ジャパン− 高橋コレクション』展覧会カタログ(2008年/2009年 株式会社美術出版社発行)
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鹿児島県霧島アートの森、札幌芸術の森美術館、上野の森美術館、新潟県立近代美術館、秋田県立近代美術館、米子市美術館、愛媛県美術館、(7美術館巡回)
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